「全く、無粋な時代だと思わねぇか?」
前を歩く春次が唐突に立ち止まる。肩越しに見える瞳は真っ直ぐ俺を捉えていて、射抜かれたような心地である。彼の花が持つ枝と同じ色をした瞳。挑戦的な光の灯る、気位の高い、貴族の目。
「……無粋」
「おや、手前はそう思わねぇのか」
「……どちらでもないな」
鈍く空気を震わせたのは俺の曖昧な返答であった。俺は、あまり主張をしない。自分の意を通そうとはしない。どちらでもない、どうでもない、当たり障りなく避けている。「思うことがない」のではなく、「言おうとは思わない」だけだ。自分の我を通すというのはなんにせよ角の立つことで、自然軋轢も生まれる訳で、それらはひどく煩わしい。言葉は心を削ぐ、それはナイフとなって人に向く、その切っ先が向く方向は、……そこまでして何を言う。そんな情熱は、俺にはない。分かっている、ただのひがみだ。「伝えたいこと」の一つもないような、どうしようもない俺への自戒だ。
「__手前って野郎はよ、いっつもなにも言わねぇんだよなぁ」
沈黙は金、ってか? 春次は陽気に返し、黒下駄をからんと鳴らす。何とも粋な身のこなしだ、……骨の髄にまで染み込んだ振る舞い。それはかつて王者であった、彼にしか見せられない美。煙管を吹く時、扇子を開く時、あくびをする時、頭を掻く時、__そこらの野道を歩くだけでも、彼は実に麗しい。足の先まで艶やかだ。
昔は彼と話すことなど、永劫叶わぬと思っていたのに。
「ま、手前がどう思おうと俺ぁ知ったことじゃねぇがな。現世はどうにも変わっちまった。ちと考えてみろよ、どうだ? 見てみろ飛脚も走らねぇ、道はせめんととかいうもんで覆われちまって真っ黒だ、どうだよ、舟も通らねぇんだぜ? つまんねぇ世の中じゃねぇか」
ほら、見上げてみな。
春次の指が空を示す。ぴん、と伸びた爪の先。俺は素直にしたがって、程よく雲の混じった空を、学帽越しに、仰ぎ見る。
「真っ青な、綺麗な空だ。お前の色した澄んだ空だよ。でもな、よぉく目を凝らしてみやがれ__邪魔くせぇもんが浮かんでんだろ」
落語の口上のような声音が、ふいに、その身に静けさを纏った。俺は日差しで細めていた目をさらに細めて、蒼を見つめる。やがて春次の言う“邪魔くせぇもん”が俺の世界にも姿を見せた。真白な線を二本引く、小さな小さな、濁る灰色。
「鉄の塊が空飛びやがる、なんて厭な時代だ、そうだろ? 道をゆく奴らを見てみろよ、誰も足なんか止めやしねぇ。俺のことも、お前のことも、だぁれも見ちゃいないのさ。皆四角い箱に夢中だ、……あぁつまらねぇ。くだらねぇ。全くもって、無粋だね」
「……そうかもな」
一言同意し、空から目を離す。一瞬世界は暗幕に溶けて、それから徐々に、視界が戻って。蒼と白で満たされたレンズはまた元通りの景色を収めた。__いや、違う、一つだけ違う。 春次の、その瞳。
「なぁ、蒼羽。それともさ、……変わっちまったのは、俺の方なのかね」
そうして、春次はこう言った。寂しげな瞳で言った。湖底に沈んだかのように、重たく翳る、茶の瞳で。
「俺はもう、美しくなんてないんだろうか」
あの時何故あんなことをしたのか、今でも俺にはよく分からない。
気付けば既に身体は動いて、眼前には呆気にとられた春次の表情があった。そこで俺は、春次の両肩を掴んでいることを悟った訳だが、その手を放すより先に、言葉が口をついて出る。
「それは、ない。有り得ない」
「だが蒼羽、」
「そんなことは、ない。お前は、変わらず美しい」
春次、お前は美しい。揚羽蝶の黒を持つ髪、香り立つような茶の瞳、花弁のように滑らかで、雪のごとく白い肌、紅に色づいた唇、形のいい爪、絡めたくなる指、振る舞い、仕草、声、全てが、気高く咲き誇っている。春を告げる紅梅、お前は誰より美しい。 なぁ、お前は美しいのだよ。
「お前は王者だ、胸を張れ。ただ咲け、それだけで構わない。お前はひたすらに麗しい」
春次の頬がぱっ、と染まった。その景色を見て俺は微笑む。花開く瞬間にも似た一刹那、とても可憐だ。 彼はおもむろに目を伏せて、俺の瞳から逃げ出した。
「手前が必死になるとは、な……珍しいじゃねぇかよ」
さりげなく俺を押し戻し、春次は背を向ける。心なしか、耳たぶも赤い。一方、俺は彼の言葉でようやく一つの事実に気付いた。
おや、確かにな。俺が我を通すとは。
「__はは、」
「なんだよ?」
「いや、……なんでもない。気にすることじゃない」
学帽のつばをぐっと下げ、俺は彼から隠れてしまった。戸惑う彼に見つからぬよう、陰の下で小さく笑う。ひっそり、こっそり、堪え切れずに。くくくと喉を震わせて。尖る気配もないその心。合わせる顔もすらありはしない、上機嫌だ。気分がいい。……これで、俺もひがまずに済む。
どうやらこんな俺にさえ、伝えたいことはあったらしい。
紅梅の別名は、「春告草」。
2011/08/15:ソヨゴ