「雛くん、雛くん。こっちを向いてよ」
 紫陽花はとてとてと雛罌粟の後を着いて回る。しばらくは異国の書を読んで無視をしていた雛罌粟だったが、やがてしつこい紫陽花に負けて、諦めたようにため息をついた。気取って、片手で書を閉じる。 ぱたん。
 振り返った雛罌粟は、大仰に目を丸くした。
「おや。今日は随分と、雨足が強いんだね」
 くるり、紫陽花は番傘を回す。可愛らしい動きに合わせて雨粒が舞い散った。頬にかかった数滴をぐいと拭って、雛罌粟は察する。 どうやら沈んでいるらしい。
 紫陽花のいるところにはいつだって雨が降る。彼がとてとて歩くたび、雨雲もまた一緒に歩く。彼一人しか濡らせない小さな小さな雨雲は、どんな時も天高く、紫陽花の頭上にあった。雨の降り方は日によって違う。しとしと、ざーざー、ぱしゃぱしゃ、どしゃどしゃ。それは彼の気分であったり、その日の空のご機嫌だったり……そして、今日は快晴だ。
「そうかな? そうかもしれないね。今日は何だか音がすごいや」
 紫陽花は健気に微笑む。なるほど雨音は凄まじい、紫陽花の番傘はばちばちと音を立て、雨を弾き飛ばしている。けたたましいまでに飛び散る音を火花のようだと雛罌粟は喩えた。 あぁ、面白いことだ。相反する事象であるのに。
 彼は理知的な瞳を細める。長く、また繊細な睫毛は白馬の毛並みのようであった。しかしながらその色は、__彼の名とまるで同じの__可憐な、赤色。雛罌粟の色。黒真珠を思わせる目はどこを見るでもなく漂う。不意に、柔らかな唇が動いた。蜜をたっぷりと果実に含んで、蝶をおびき寄せる唇が。
「紫陽花。何か言われたかい?」
 その雨は、心の雨だろう。 雛罌粟は気取って続ける。
「慰めてほしいのだろう? だったらそうと、云やぁいい。」
「……雛くんはすごいなぁ。」
 何だって、お見通しだね。 雨の中で紫陽花は笑う。
「どうしたんだい、言ってご覧」
「__赤薔薇様にね、」
 紫陽花はふっと俯いた。白い肌に影が落ち、彼を幽玄に見せている。番傘の紅がより一層彼の青さを引き立たせ、紫がかった黒の瞳が、寂しげに雛罌粟を見上げた。
「『お前は陰気で気味が悪い、私のそばに寄るんじゃないよ』……と、言われてしまってね」
 またあの傲慢な女王様かと内心で雛罌粟は嗤った。いつも醜いな、あの男は。……そう考えて愉悦に浸る。けれどその時同時に、彼は、不快なものをも感じていた。よくよく探ってみればそれは、大嫌いなあの男の名が紫陽花の口から出た事実であり、しかしかといって何故それを不快に感じたのかまでは、博識な彼にも分からなかった。と、言うよりは__分かるけれど、放っておいた。 こちらの方が正しいだろうか。
「は! いかにも薔薇様の言いそうなことだね」
「ねぇ、雛くん。やっぱりぼくは鬱陶しいかい?」
「そうさね……まぁ君がじめじめと陰気なことは否定できない。何より僕は、雨が嫌いだ」
 わざと突き放すようにして、雛罌粟は紫陽花を見つめる。紫陽花は彼の“黒”の中から真意を見つけ出すことが出来ずに、また下を向いてしまった。 くす、くす。悪戯のような笑み。
「紫陽花、」
 蜜の香りがして、紫陽花は再び上を向く。そして次の瞬間に、__彼の思考は止まってしまった。
 もぎたての桃のようだった。瑞々しい彼の唇は、紫陽花の唇を柔く捕らえて放さない。番傘がぽとりと落ちる。いくらか弱まった雨に打たれて二人の髪は雫に濡れた。紫陽花の顎は雛罌粟の、書の似合う指に持ち上げられて、紫陽花は顎も唇もくすぐったくてたまらなかった。 どく、どく。鼓動が高鳴る。
「__僕は、雨が嫌いだよ」
 すぅと、唇を離して。紫の瞳を覗き込んで。
「けれどね、間違えちゃいけないよ紫陽花。……僕は君のこと、嫌いじゃない」
 くす、くす。蜜の絡んだ声音。雨の外へと逃れながら、彼は妖しく笑みを浮かべた。くるり、前を向き、歩き出す。紫陽花はただ呆然としていた。
「着いてこないのかい、紫陽花」
 濡れた頭を軽く振り、肩越しに雛罌粟は言った。夢から覚めたようにはっとして紫陽花は雛罌粟に駆け寄る。ぱたぱた。とてとて。 二人は歩く。
「ぼくも、ぼくも君が好き」
「おや。僕は好きとは言っていないよ?」
「意地悪だよぅ、雛罌粟」


 雲一つない空の下。雨雲は、上機嫌であった。
気取り屋の雛罌粟くん。ちょっと陰気な紫陽花くん。

2011/07/13:ソヨゴ